仏法について


信じると信じ得ないとは、各々の法縁の深浅があるため、何ともやむを得ないものがありますが、一応話だけしておきます。

仏法の根本と、その全てを簡単に云うと。
「宇宙は一つものと悟り、それを身に付けること」であります。

 どういうことかと言うと、釈尊も眼を開かれる前は、自己とは宇宙の中の小さなカタマリにすぎないと思っておられました。しかし12月8日、明けの明星を見られた瞬間、この「俺が」という我がフッと消え、自分と他との境が消え去った時、大変なことに気がつかれました。
それは宇宙間一切のものには何一つ理屈がなく、哲学もなければ宗教もない。名前もなければ境もない、只一個のそのままの丸出しだったということであります。そしてこれが本当の自己の正体だったと気づかれたのです。その時の感動を「奇なるかな奇なるかな、山川草木悉皆成仏す」と仰せになっておられます。
 わかってみたら、山も木も一切合切が無我無心にして、どれひとつとして同じものがない、すべてが独立独歩で比較の仕様がない、手のつけ様のない、まさに完璧な仏の丸出し、宇宙は完璧な仏の大博覧会だったのです。
 これがいかにとてつもない大発見であるかは、少しでもこの体験(これを見性といいます)をした者でないとわかりません。丁寧に説明すればある程度の見当は付くかもしれませんが、本当の納得と感動は生じません。

 このように、宇宙(自己)は只一個の丸出しと徹底見破った途端、全ての人生問題が氷解します。
只一個ゆえに、どこからか生れて来たり、死んで行くことはありません。というより断じて不可能なのです。姿かたちは変わっても、死んでも何処にも行きません、千変万化の生き死にそれ自体が自己そのものだからです。丸出しゆえに、生は生において完全無欠、死は死において完全無欠、比較対立のしようがありません。生死問題も瞬時に解決します。いや最初から生死の対立が無かったことを悟るのです。
 さらに迷と悟・凡と聖・是と非・得と失、そのような対立も元々この宇宙間のどこにもなかったとハッキリとわかります。
(したがって、まず何としても多少なりともこの体験をして、いちど無我の宇宙を垣間見る必要があります。ことに出家はこれを率先指導する立場のプロでなければならないのですから、いくら真面目だからといっても、この体験が無ければニセ坊主です。坐禅はこの体験を得る最短方法であり、接心会とはこの無我の宇宙に接するための最も効果的な修行なのです。)

 ここに至って、今まで人が作った理屈で完全に惑わされていた自分の人生がすっかり変わります。
一切の理屈を離れ、宇宙の真理である無我の姿とピタッとひとつになったの生活を目指すようになります。
 しかしながら人間の思慮分別、悪癖、執着は根深いもので、例え真実をハッキリ見抜いてもなかなか体は言うことを聞いてくれません。習い性になった脳みそと体がこれに逆らうのです。本来ひとつなのに、どうも自分というのが別にあるように感じたり、つい「俺が」の欲で動いてしまったりします。
 そこで、ここは作為的に(最初見抜いた時と同じ様に)何かに成り切ることで自分を忘ずる訓練(坐禅修行)を継続する必要が出てくるのです。
(自己を忘ずるには、初めはどうしても作為的に成り切る努力をするしかありません。よく、作為を放棄したらそれで無我無心になるはずと主張する人がいますが、そうは問屋がおろしません。作為を放棄しても無我にはなりません。ただの凡夫が残るだけです。血のにじむ努力は残念ながらどうしても避けて通れないものなのです。)

 この自己を忘じて、徹底忘じて、忘じたこともすっかり忘れて、無我の生活が完全に身に付くまで研鑚を重ねていくこと。 これを仏道といいます。