ながらくお待たせしました。
東 照 だ よ り 平成22年9月
閻魔(えんま)大王 |
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東照だより 平成22年3月
ある日、近所でも評判の悪いこの姑が外出した折に、近所の青年に「鬼婆々のお出かけ」と囁かれ、これが耳に入ったものですから、怒り心頭に達して帰宅してまいりました。そしてその怒りを篤子に向け、呼びつけて「あなたは評判の歌人だけれども、今日は私が下の句を作ったから、これに上の句を付けておくれ」と言いました。 その下の句とは、『鬼婆々なりと人や云うらむ』というものでした。 いつも意地悪な私のことを、人はさぞ鬼婆々と呼んでいることだろうという訳です。 これに上の句を付けろと言われても、どう付けたところで下の句が『鬼婆々・・』ですから何ともなりません。実に意地悪ですね。 しかし、篤子はこれに対して即座に上の句を付けました。 『仏にも勝る心と知らずして』と詠んだのです。 『仏にも勝る心と知らずして、鬼婆々なりと人や云うらむ』 嗚呼、常にそのような心で接しておったのか。そうでなければこのような句は直ぐには出ない。私が悪かった許しておくれと、姑はここで初めて心を開いて泣いて謝ったそうであります。実に、人を憎まない・怒らないということは偉大な説法であり、人を動かす力があります。
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仏教で説いているのは、「因縁」つまり原因と結果による因果 因縁あるのみで「自分」といったカタマリなど無いにもかかわ それゆえに人生に於いてやるべき事は、いかに良い因縁を作る この仏縁について面白い話が有りますので紹介しておきます。 昔、釈尊在世中のお弟子に蓮華色比丘尼(れんげしきびくに)という尼僧があって、信者のご婦人方にしきりに出家の徳を説き、出家を勧めていました。しかし婦人たちの返答はいつも同じで「確かに出家は尊いことですが、私たちは未だ年も若く綺麗でもあるし、また仏の戒も完全に守れそうにないので、当分見合わせましょう」といったものでした。 すると、蓮華色比丘尼は「仏戒を守れなければ、破戒してもよ そこで、蓮華色比丘尼は自分が過去生の些細な因縁(仏縁)か それは、「実は、私は三生前は遊女でありました。それがある この蓮華色比丘尼のように、三生前の戯れ事とはいえ、ちょっ |
東照だより 平成21年3月 ある時、寺の住職と小僧さんが餅を焼いておりました。するとそこへ用事でやってきた檀家総代が、これを見て「何ということを。今日は厄日で、こんな日に餅を焼くなんてとんでもないことですよ」と言うので、住職は「いやー、そうでしたか」と言って、小僧に命じて餅を片付けさせました。 そして、ひと通り話が済んで総代が帰ると、住職はまた小僧さんに餅を持ってくるように命じ、再び餅を焼き始めました。小僧さんはビックリして、「さっき、総代さんが今日は厄日だと言っておられましたよ」と言うと、住職は「ああ、厄はさっき帰っちゃったよ」と言ったそうです。 仏法では、道理に適った「正信」に対して、このような厄日だとか、縁起が悪いといったものはすべて「迷信」としてそういったものに囚われてはならないと説いています。 しかし、現実には世間一般の仏教行事の中にはかえって数多くの迷信があふれているように思えます。例えば「友引」の日には葬儀を行なってはならない。なぜなら「友を引く」からだとか、実にまことしやかに言われていますが、この語源は「共引(引き分け)」から来ていて、「友を引く」などと言う意味はもともと全くありません。語源を辿るまでもなく冷静に考えればこれが単なる語呂合わせの迷信に過ぎないことは明白なのに、なぜか人々はこういったものについ囚われてしまいます。 そのほか、葬儀の時の花は白色であるとか、ご遺体は北枕にするとか、口には末期の水を含ませなければならないとか言われますが、これらもお釈迦さんが亡くなられた場所が、白い沙羅双樹の林の中で、体を北向きにされ、亡くなる直前に水をお飲みになったことから来ています。お釈迦さんの徳を慕い、葬儀の際にお釈迦さんと同じような状況を演出しようとしたのがそもそもの始まりなのですが、これが「しきたり」として定着し、さらに時間が経って次第に「迷信化」してくると、そうしなければ災いがあるとか、成仏できないとかメチャクチャな話になってきます。もし南向きで亡くなられたら「南枕」になっていた訳で、北向きに意味があるわけではありません。 仏法に不思議無しで、こういった妙な「しきたり」に対しては、それがどのようなところに由来しているのか、また単なる迷信ではないかをよく見極めた上で行動して行く必要があるように思います。 お釈迦さんの時代にこのような「しきたり」が存在しなかったように、そのようなものが全く存在しないのが本来の姿です。 とはいえ、ことごとく「それは全くの迷信です」と切り捨てて、角を立てて回るのではなく、この餅焼きの住職のように、よくわかった上で「いやー、そうでしたか」と状況に応じてはそれに従い、かといって本人はそういったことに全く囚われていない境地が必要なのだと思います。 |
東 照 だ よ り 平成19年9月 戒名とは「仏の戒」を受けた人に授けられるものですが、その主旨はたとえその戒を百パーセント実行出来なくても、すでに仏の位に入っているのでこれまでの俗の名前ではまずかろうというので、仏教的な意味のある漢字を選んでお付けするものです。 では、どうして「受戒」の儀式を行っただけで仏の位に入るのかというと、それは例えば何も知らない赤ん坊であっても、家督相続の儀式を行えば、その時点で富豪の家の堂々たる相続人となるようなもので、家の財産状態や、何人の使用人がいるかなど全く把握しなくてもたちまちその家の主人となり得るからです。富豪の主人としての素養や財産の把握はその後に追々時間をかけて行えばよいのです。 したがって、この仏法の家督相続ともいえる「受戒」の儀式は一刻も早く、まず受けることが極めて大切なことになってきます。 ところが一般には葬儀のときにこれを行っています。葬儀の中心はまさにこの受戒の儀式なのですが、これは当人が既に亡くなっているので仕方なく僧侶が一方的に遺体を前にして戒を授けているのです。これも本質的には受戒の効用が欠けることはありませんが、やはり生前に少しでもその意味を理解し受戒をした方がより深い仏縁となることは言うまでもありません。 ところで、「仏戒」というと、その言葉のイメージからなにやら厳しい規律やいましめのように感じられるかもしれませんが、そうではありません。仏戒とはまさに仏の悟り、仏法そのものなのです。 戒の根本にあるのが三帰戒で、「仏・法・僧」の三宝に従いなさいということです。「仏・法・僧」というと、一般にはお釈迦さんとその教え、そして坊さんと理解されているようですが、仏(ほとけ)とは「ほどける」から来ているように、人間の余計な理屈がほどければ、この宇宙はそのまま無我無心の丸出しだということです。ちょうど宇宙を一枚の写真に収めたようなもので、どこにも境界などなく、名前や宗教・哲学などの余計な理屈は微塵も付いていません。全く手のつけようのない純真無垢が本来の姿で、これを仮に名づけて仏というのです。 法とは因果の法則のことで、もともと純真無垢のこの仏(宇宙)は無我ゆえに、さまざまな因縁(因果)に応じてありとあらゆる形になって現れるということです。つまり犬は犬に生まれる因縁によって犬となり、人間は人間に生まれる因縁によって人間となるのです。また、最初から善人とか悪人とかがあるのではありません。人は因縁によって(環境や教育ひとつで)善くもなれば悪くもなるのです。 そして僧とは坊さんだけに限らず、この仏が法によって千変万化していることを知って、この道理に従った正しい生活をする現実の姿のことをいうのです。 しかし人々は「すべては因縁のみで、一切は無我である」ことを知らず、因果必然の道理を軽んじ、実我を作りあげ、俺の金、俺の土地、俺の権利と、真理に背いた悪業三昧の生活を(悪とも知らずに)行っています。 このような中にあって、より良い因縁となる無我の善行を積んで止まない生き方を目指すのが仏戒です。 ですから「受戒」とは誰もがこの道理を無条件に受け取ることのできる実に尊い儀式なのです。 |
東 照 だ よ り 平成19年3月 無我と三時の業 無我というと、よく坐禅会で「なかなか何にも考えずにおれません。」とい う人 がありますが、無我とは何にも考えないことではなくて、読んで字の 如 く、我が 無い、つまり自分が無いということです。そういうと、「い や、自 分はちゃんと ここにあります。」と反論されるかと思いますが、 はたして赤 ん坊の時の自分は 一体どこへ行ってしまったのか、先ほど別 の部屋に居た自 分は、そして焼けば灰 になるこの自分とは一体どれが本 当の自分なのかと考 えをめぐらしたとき、どこ にもこれこそ正真正銘の自分ですと言い切れるカ タマリが無いことに気が付くは ずです。つまり、あるのは因縁によってあら ゆる形に変わっている事実があるだ けで、自分があると感じているのは実は 錯覚にすぎないのです。 しかしほとんどの人はこの錯覚の「我」を認めて、「おれの土地・金・名誉」などといった生活に終始しています。そしてこれが実は真理に反する行為のためにすべてが悪因縁となっていることを知りません。たとえボランティアといえども少しでもこの「我」を認めればたちまち悪となります。 無我のとき、すべては一切のための活動となり、その中で状況に応じてベストを尽くしていくことが良い因縁作りであり、これを仏道といいます。 良い因縁は良い結果を生み、悪因は悪果を生むことは紛れもない事実です ただここで、良いことをしてもその結果がすぐに現れない場合があります。真面目に生活しているのにあらゆる災難や不幸が訪れたりすると、この世に因果の道理も神も仏もあるものかと思いがちですが、それは原因が結果となって現れるのに三つの種類があることを知らないからです。そのひとつは、結果がこの世ですぐに現れる場合で、例えば悪いことをやって警察に捕まり、刑務所に入るといったケースです。もうひとつは、この世では現れなくて次の世に現れる場合で、警察にも捕まらず一生いい暮らしをしてシメシメと思っていてもそうはいきません。必ず次の世で報いを受けることになります。さらにもうひとつは、次の世でも現れず、その次の世でも現れず、さらに後の世でその結果が現れる場合です。これを「三時の業」といい、要するに原因があれば結果があるという因果の道理からは絶対に逃れることはできないということです。 したがって、不幸に対してそれを社会のせいにしたり自暴自棄になったり、今だけ良ければよい生活をすることは新たな悪因となるので、幸・不幸に一喜一憂せず常に真っ正直に生きることが肝要です。 少なくともこの無我と三時の業をよく納得すれば、自分の我欲に執着した生活や、明らかに悪いことなど絶対にできるはずがないのです。 |
東 照 だ よ り 平成18年9月
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東照だより 平成18年3月 提婆達多尊(だいばだったそん) 人はとかく自分の境遇がうまくいかないと、お前のせいだ、社会が悪いと怒りをぶつけたりします。ことに昨今の若い世代は権利意識と批判教育のためか、益々そういった傾向にあるように思えます。 先日、ある高校の卒業式で話をする機会がありましたので、東照寺にお祭りしてあります提婆達多尊について話をしました。 ご存知の方もあるかと思いますが、この提婆達多は釈尊のいとこに当るのですが、当時としては新興宗教であった仏教を徹底的に排斥し釈尊の命まで付け狙った人物であります。ある時、石を転がし釈尊に怪我をさせたことがあり、仏身を傷つけた罪で今でも地獄に落ちていると言われています。 では、一体どうしてそんな人物をお祭りしているのかというと、実は、釈尊がお説きになった「提婆達多品(ぼん)」というお経の中に「提婆達多が善知識が為なり・・・」という一節があります。今、自分がこうしてあるのは提婆のお陰だと書いてあるのです。 つまり、提婆がいた為に一瞬も油断することなく、常に気を引き締め、よって修行を円成することが出来たというのです。 話を現代に戻してみても、物事がうまくいかないときに、「あいつが居るからだ、あいつさえ居なければ」と思うのはとんでもない考え違いで、そういう人物があってこそ自分の本当の成長に役立っているのです。 似たような逸話に、戦国時代に豪傑として知られたある武将の話があります。その武将は実に腹の坐った大男でしたが、毎日夕刻になるとお宮にお参りに行ったそうです。周りの人が、やはり見かけは豪傑でも心の奥底では気弱なところもあって何かしら神様にすがることがあるのだと思い、一体何をお願いしているのか、ある晩ソッと後ろからついて行ったそうです。そして、その頼んでいる内容を聞いてビックリした。「我に百難を与えたまえ」と拝んでいたのです。 人は通常、神社仏閣にお参りするとき、「災難が来ませんように」と願い、常にビクビクしながら生活しているわけですが、このように「百難を与えたまえ」という人にとっては、1つや2つ、いや20や30災難が来てもそれは全く災難とは言えないし、はたしてこのような人に災難というものがあるのだろうかという思いがします。 お彼岸とは、迷い苦しみの世界から絶対安心の岸に到着することですが、実は災難から逃れようとジタバタするのでなく、多少ともこの決心さえあれば既に岸に到達していると言えるのはないでしょうか。 |