坐禅の心得


直接の心得


1、坐布団

 坐禅をする時はなるべく厚い坐布団を敷いたがよい。敷物が薄いとすぐに足が痛くなり、その事で頭が一杯になってしまっては本来の坐禅が出来なくなってしまう。坐禅は足を痛めて我慢する修行ではないので、厚い坐布団を使うのに遠慮は要らない。
そしてその上に坐蒲(ざふ)を置いて尻の下に当てる。坐蒲とは丸い蒲団のことで直径40センチ高さ15センチ位で中にパンヤが入っている。 



2、坐 法

 坐リ方には、結跏趺坐(けっかふざ)と半跏趺坐と日本坐との3通りがあり、それに加えて外国人などで何としても坐れない場合、慣れるまで一時的に椅子を使うことがある。
この中で一番本式の坐法はもちろん結跏趺坐(けっかふざ)だが、痛さは我慢できても、物理的に両方の足を上げるのが無理な人は、略式の半跏趺坐(はんかふざ)にする。それも出来ないという人は日本坐でもさしつかえない。

○結跏趺坐(けっかふざ)
 右の足を左の股の上に置き、左の足を右の股の上に載せる。
(参考までに、仏様の足の組み方を見ると、これとは逆になっている。それは仏様は向下 門といって衆生済度の時の足の組み方で、我々修行途中の者は向上門といって上記の組み方になる。)

○半跏趺坐(はんかふざ)
 ただ左の足を右の股の上に置く。

○日本坐
 一般に正座と呼ばれるが一寸違う点は、坐蒲(ざふ)を尻の下に敷いて、足の拇指を重なり合わせる。
そして膝のところは両手の握りこぶしを並べた位あけて坐る。
この坐り方も長く坐ると結構足が痛くなるので、そのときは坐蒲を足と足との間に挟んで馬乗りのようにして坐ると楽になる。

 結跏、半跏が出来る人でも長く坐れば足は痛くなるもので、そんな時は結跏、半跏、日本坐と、坐法を変 えてもよい。また半跏も痛いときは時々逆の組み方にしてもかまわない。



3、手の組み方

 右の手を下に、左の手を上にして左の足の上に置く。そして両方の拇指の爪と爪とを軽く当てて卵形をつくる。これを法界定印(ほっかいじょういん)という。

眠いと指が離れ、気持ちが散漫だと形が崩れる。適度な緊張をもってこの卵形を維持する。
腕と胸とは間をあけて、肩の力は抜く。



4、姿 勢  

 背筋を真っ直ぐにする。これはとても大事なことであり、余程注意しなければならない。自分では真っ直ぐだと思っていても背中が丸くなっていたりで、少し反り気味と感じる位でちょうどいい加減である。

姿勢が悪かったらもう坐禅でも何でもないと思って、常に姿勢を崩さないよう努力しなければならない。



5、視 線

 眼は絶対に閉じてはいけない。ここが世間一般の静坐や瞑想と違う点である。静坐は心を落ち着かせて、いい気持ちになったらそれでOK。瞑想は目を閉じて神とかそういったものを頭の中でイメージし、その内それが現実みたいに感じられてきたらそれを宗教体験だともてはやす。
 仏法は気が落ち着いたり、眼をとじていい気持ちになったり、また特殊な感覚を持つことでもない。どこまでも眼ははっきり開けて、テッキリハッキリと自己の正体を見破ることである。
視線は1メートル程前に落とし、だからといって何かを見詰めるようなことはせず、見えるものは見えるままにしておく。



6、呼 吸

 坐禅を始める時は、まず鼻から徐々に息を吸い込み、充分に吸い込んだら腹の底に押し込むようにしてしばらくそのままにして、徐々に鼻から細く長く吐く。これを坐禅儀には「欠気一息」と書いてあるが、要するに、深呼吸をして、その後の呼吸は自然に任せると理解してよい。



7、調 心

 心を調える方法に、数息観(すうそくかん)、随息観(ずいそくかん)、只管打坐(しかんたざ)、公案三昧(こうあんざんまい)がある。

数息観
坐禅のあいだ中、その呼吸を「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」と1から10まで数える方法で、これには
@出息観    吐く息を数える。
A入息観    吸う息を数える。
B出入息観   吐く息と吸う息をすべて数える。
の3通りがある。
よく、眠い時は出息観、クシャクシャするときは入息観、これらが強烈な時は出入息観がよいといわれるが、自分でやってみて最良の方法を選べばよい。
いずれにしても、肝心なのはひたすら”成り切る”ことである。
これを数字だと思って数えていてはダメである。「ひとつ」のときはタダ「ひとーつ」、「ふたつの」ときはタダ「ふたーつ」と成り切っていく。
ぼんやりしていると、11、12と数えていたりする。そんな時は「ああ、自分は集中力の足りないダメ人間だ」なんて、くよくよしないで、すぐに「ひとーつ」とやり直す。

随息観
息を数えたりせずに、出入りの息そのものに成り切っていくやり方。全身全霊、吐くときは吐く息になってしまう。吸うときは吸う息になってしまうのである。

只管打坐
全く何の手立もせず坐り込むこと。そういう意味では生一本の坐禅である。
只管とは「ただ」もしくは「ひたすら」、打坐とは文句無く坐るということである。実は数息も随息も公案も只管打坐への方便なのだが、この只管打坐の場合一切の方便を用いない為、かえって自分勝手な理解で終ってしまう危険性がある。
「只管打坐」という言葉だけを覚えて何となく坐ってさえいればそれでそのまま仏法と、とんでもない邪解に陥っている者が多い。

公案三昧
仏法は自己を忘ずることで、その為に問題を与えてその手助けをするのが公案(禅の問題)である。
たまに、公案禅が何か仏法臭い事を学習していると思って批判する人がいるが、見当違いも甚だしい。どこまでも自己を忘じ公案に死に切る無我の行である。
公案の答はすべて自己を忘じた無我の丸出しのところなので、忘じない限り解らないよう実にうまくできている。
ただし公案の場合、正師家に参じ、自らも強い道心(菩提心)を持たないと、批判されるような公案学習・公案ごっこで得意になっている模倣禅者となるので、くれぐれも注意しなければならない。


東照寺では、初心の人には数息観、後にその人の機根に応じて公案を用いた指導を行っている。





間接の心得


1、面 壁

 壁に向かって坐れということであるが、壁にとらわれなくてよい。要は遠方が見えると坐っていて気が散りやすいからで、自宅であれば、障子・ふすま・壁の前、また仏壇の前とか床の間の前などで坐るのがよい。
なお、あまり接近せずに1メートル位は離れて坐る。



2、食 事

 食事は腹八分(七分)で、食事後は暫く休憩して坐禅を始めたがよい。
お腹一杯だったり食事の直後は眠くなりやすいからで、いねむり坐禅は効率も悪いし体にも良くない。また習い性になって眠り癖がついてしまいかねない。
かといって、断食坐禅と称して全く食べないのもよくない。工夫に力が出ないことがあるので何事も適度が肝要である。
勿論、熱心にして眠くもなんともない場合はどんどん坐って結構である。



3、時間と回数

 数分の坐禅だったらしないのと同じだと思っているとしたら、これは大きな間違いである。
本質論から言えば、たとえ1秒の坐禅でもそこに無限の過去・未来が集約され、全宇宙を清浄無垢にする偉大な功徳力を持っているのである。これが信じられないとしてもそれだけの見識を持って、寸暇を惜しんで坐禅すべきである。
ところで、一日にどのくらい坐るかは各々の環境や志によって全く違う。志が厚ければ他の人には無理と思われることもその人にとっては何ら無理でない。
よく、時間がなくてと言う人があるが時間も志があればいくらでも作り出せるものである。
ただ、やたら長い時間をいちどに坐れば良いと言うわけでもない。ダレてきたり朦朧としたりするからである。したがって、初心の間は一回を30分から40分までにしたがよい。そしてさらに長い時間続けたい時には経行(きんひん)と休息を入れた上で坐禅を繰り返す。例えば、坐禅40分、経行5分、休息15分といった具合である。
※「経行」については別項参照



4、時を計る

 坐禅をする時には、何か時間を計るものを前に置いた方がよい。。坐禅はその時の調子によって時間の感覚が違ったり解らなくなったりするので、自分が既にどのくらいの時間坐ったのか気にしてしまうことがある。そこで、時計を使うのもよいが線香を使うのも良い方法である。

何度か坐ってみて、時間と線香の長さを知り、その長さの線香を目の前に一本立てて坐ればよい。また、香りのいい線香であれば坐禅集中の助けにもなる。



5、経 行(きんひん)

 坐禅を継続する時に、定期的に途中で立って室内を歩く事である。
視線は約2メートル位先に自然に落とし、手は叉手(さしゅ)といって右手を握りそれを左手で覆う。それを胸に当てて腕は水平に伸ばす。足はかかとから音を立てずに歩くのである。
この経行は、決して坐禅の休憩ではない。いわゆる歩行しながらの禅であって、数息観の者は数息しながら経行し、只管打坐の者は只管に歩行するのである。
一般に、経行は眠気覚ましと足の痛みを直すものと思われがちだが、人間は静かな環境では比較的まわりの影響を受けにくいが、ちょっと動いたり騒がしかったりするとすぐに環境に流され判断を誤ってしまう。仏祖はこの経行によって、動いている時でも常に正しい工夫が出来るよう促しておられる。













叉手の組み方と歩き方について

我が宗(曹洞宗)では叉手は左手を握り右手で覆っているが、
東照寺のご開山(原田祖岳老師)は「手も足も右を下、左を上にするのは修行途中の向上門の場合。向下門の仏祖はその反対で左が下、右が上。したがって叉手も我々は右が下、左が上が正しい。」と仰せられ、当然東照寺ではこれにしたがっている。(臨済宗も我々と同じ)


また、曹洞宗では一息半歩といって一呼吸の間に半歩進むという実にゆっくりした歩き方で、臨済宗はドッドと小走りに歩き共に両極端である。どちらも状況に応じて行えば良いとは思うが、東照寺ではその中間位の速さ(普通に歩くより少し遅い程度)で経行している。イタリアでは曹洞式の方が外国人の足には合っているようなのでこちらを採用している。



6、警 策

坐禅中、肩を叩く棒のことで警策(きょうさく)という。
警策は決してしごきや処罰の類ではない。やる気を奮い起こし、大死一番、悟入の手助けに使うのが本来の警策である。
普段の坐禅会では連策といって坐禅開始の時、皆平等に軽く叩くだけだが、命懸けの接心会となるとかなり警策が活躍する。悟りを目指して真剣にやっている者ほど必然的に多くの警策を受けることになる。
姿勢が悪いとか、寝てるからといって使う警策は二流三流の使い方である。坐相が悪ければ直してやればいいし、寝てるような者は帰ってもらえばよい。

警策の受け方
役僧が右肩に警策でポンと軽く合図をしたら、合掌したまま首を左に曲げ体を少し前に倒して警策を受けるのが曹洞宗のやり方だが、東照寺ではご開山の「坐禅の姿勢を途中で崩してはならない」という仰せに従い、首だけを左に曲げて警策を受け、そのままの姿勢で合掌し、そして元の坐禅の形に戻るようにしている。



7、手帳携帯

 坐禅をする時は袖やポケットに小さな手帳を持っていたほうが良い。坐禅して心が落ち着くと忘れていた事を突然思い出したりすることがある。そこでこれを忘れないようにと思い続けていては坐禅に集中できない。そんな時は手帳に控えてあとは安心して坐ればよい。 (注 坐禅堂内での書き込みは禁止。これは自宅等での場合)





独参について


1、独参とは

 独参(どくさん)は、独りで参じると書くように修行者一人一人が師家の前に行き、膝を付き合わせて自己の見解を述べ、批判をあおぎ、また師家と道力を戦わすところでもある。
この独参を今風に言えば、全体指導に対する個別指導のことである。仏法を伝授するにはこの個別指導(独参)がなければ極めて難しいものがある。
何故なら仏法は一般論として公開できるようなものではなく、各自各様のの生きた事実そのものであって、そしてその開拓方法も各自各様で、断じて同じではない。ある人には通じても、ある人には役に立たない。
そこで師家は各自の力量や因縁を見極めて、それぞれに応じた開拓方法を試みる訳である。それが独参である。

独参の注意事項として、
独参上のことは絶対に他人に話してはならない。また聞いてもいけない。
参禅者同士が独参のことを話し合うと、どうしても他人のできごとを自分の参考にしたくなる。一見問題なさそうであるが、本当に自己の開拓を行おうとする時これが大きな妨げになる。恐るべき事である。おせっかいは禁物である。



2、作 法

 独参そのものが修行者にとって無我の行の実践であり、平常はともあれ独参の時には師弟ともに世間的な人間感情は捨てて正法の前に全身を投げ出さなければならない。修行者は師家の前では仏の前に出たのと同じ敬虔さをもって参ずべきである。
師家もまた、たとえ人間的には欠点が多くあったとしても仏法の眼をもって独参を受ける以上は仏祖となって、全く遠慮することなく、徹底殺すべきは殺し活かすべきは活かさなければならない。

以上の精神で独参の作法を行う。
まず師家の部屋の入り口で三拝、それから合掌したままで部屋に入り師家の目の前で三拝、静かに坐って師家の膝と自分の膝とが50センチになる位まですり寄る。手は法界定印(坐禅と同じ)で姿勢を正してすぐ「何々(公案、もしくは数息観)に参じております」と言う。

問いや答えは簡潔に要領よく言い、その他の思想的なことは(たとえ仏教教理であっても)独参では聞いたりしない。どうしても尋ねたい事なら別の機会にする。まして身の上相談などはもっての外である。独参はただ、修行上のことのみである。

そして、師家がチリンチリンと鈴を振ったなら、それは次に待っている者に来いという合図と同時に、独参に来ている者に帰れということであるから、自分としてはまだ言いたいことが残っていたとしても帰らなければならない。
その時は坐ったままでお拝し静かに立ち、部屋を出たところで師家に向かって三拝する。そして静かに坐禅堂の自分の席に戻る。

(独参のお拝は、本来このようにすべて三拝であるが、独参する人数が多かったりすることから東照寺では略して各一拝づつにしている。)

独参への往来は急ぎ過ぎず遅過ぎずでドタバタ走るのはよくない。かといってノロノロ歩くのも手間取るばかりで人迷惑である。それから往復の時の手は叉手、独参室では常に合掌である。なお、独参を待つ時も往来の途中も決して休み時間ではない。油断無く熱心に、自分が参じている公案に成り切って往来すべきである。

以上、これをお読みになったのも実に無上の因縁です。
無常迅速ゆえ,各々油断なく精進されますことを願っております。

鉄城  合掌